エンジニアとしての『表現』に思いを馳せる

ある意味、表現だらけの昨今において 『表現』というものは、”呪い”だ。 – orangestar2 の捉え方は面白く、改めてエンジニアにおける『表現』=『アウトプット』について考えたくなりました。

遥か昔に書いた エンジニアがアウトプットすべき理由 | 外道父の匠 は、技術面向上の役に立つよ、という話でしたが、今回は私自身の精神的な面の振り返りになります。ITエンジニア全体に対してとかじゃないので、そこんとこよろしくポエム。



『表現』の意義

【個の責任】において、公のインターネットという場でサービスを提供したりエンジニアリングについて発することを『表現』する、ということにします。閉じたイントラネットや、複数人による成果は、責任の度合いの性質が全く異なるので、ここではあえて定義を絞っています。

結論から言うと『表現』は突き詰めて言えば【自己満足】でしかありません。

発する内容の品質や精度が向上すること、自己が成長すること、是非あれど反応をもらう刺激、人気や評価を数値で確認する楽しみ、など色々あります。

それらを得るには、少なくない時間と労力だけではなく、独自のアイディアやSNSコントロールなども必要です。それを何年も継続するとなると、得るものよりもパワーの消費を多く感じられることもあり、『表現者』になるという決断はなかなか起こりません。

ただ、その全てが【個の責任】の下にあるからこそ、大きな価値があるのだと、長く続けていて思うようになりました。


『表現』の魔力

組織内での業務内容そのものは通常、公の場で発することはありません。また組織として発する場合は対外的なアピール色が強く、出す内容も好き勝手にというよりは多少のチェックが入ることがあるでしょうし、構成やデザインは共通のものとなります。

これら日々の業務や活動は重要なことではありますが、自由度が低いという特徴があり、その代わりに成功も失敗も良い意味で組織内で薄めることができますし、イントラネットから共有表現の場へのステップアップとすることも可能です。

……必ずしもその道の先にあるというわけでないですが、そこから個の『表現』に足を踏み入れる時、全く異なる自由度と責任感を体感できることでしょう。

まず自身が『表現』する種類や場所を決めます。内容の方向性を考え、見た目を整え、どのくらいの頻度にするのか。特に内容は、基本的に業務中に得た知識や経験を元にするため、内部的な名称や仕組みをどのくらい出してよいのかの判断は重要ですし、少なくとも全てにおいて会社の不利益にならないように活動する必要があります。

そういう意味ではそもそも所属する会社が個人的な活動を許容できる性質なのか、も大きく関わってきます。公での『表現』に価値を感じてもらえるのか、実名での活動が許されるのか、アフィリエイトのような副収入は許可されるのか、執筆活動は業務時間の一部を使えるのか。

こういった障壁がある環境ない環境、色々あると思いますが、それらを乗り越えた上で、かつ一定以上の信用を得ていないと自由な活動というのは難しいものです。組織規模が大きければ、先人によってそういう活動路が敷かれている可能性が高いですが、小規模からだと自身で切り開く場面もあるわけです。

そんな感じで少なくない労力の上に成り立たせ、業務や趣味において多くを個のパワーで突き進む経験をしてしまうと、なかなかそれでしか満足できない身体になってしまいます。インターネットに『表現』を残し続け、その効果の全てを余すことなく個人で味わい続けたいと思うようになります。

公の場で『表現』することで得る脳内麻薬みたいなもので、それを知らないままの方が確実に平和に生きていけるけど、いったん踏み入れた以上は後退のネジをはずしてあるんだよ云々。

未経験の人間からするとネットでよく使われる【承認欲求】のために見えるかもですが、そんなちゃちい話ではありません。とはいえ承認欲求オバケにだけはならないよう意識的に自己を抑えつつそれも享受していますが、他にも続ける理由はあるものです。


人生の『表現』

ここからは普通は口頭で話すことではないような、『表現』であるからこそ書ける内容を書いていきたいと思います。現実だと酔っ払いがくだを巻くような内容かもしれませんが、こういう【自分の場】で好き勝手に思考を綴れるのは『表現者』ならではです。

──人は誰しも若かりし頃に、なぜ生きて死に、どのように生きて死ぬのか、といった死生観に考えを巡らせることがあると思います。家族や友人を作ったとか、仕事や趣味をやりきったとかは、人生における一般的な充実感や満足感であり、『表現』を残すこともそれらに近いほど影響を与えてくれると感じています。

『表現』を長く残し続けた結果から感じられることとして、今現在から振り返って今までこれだけ『表現』を残してきたのだから、これからも残していこうという習慣的な継続力に繋がるポジティブな面、反して今までこれらを一切残してこなければ、これからも何も残せないだろうし、今の自分がどこまでしか到達できなかったんだろう、といったネガティブなタラレバより確実に上を歩んでいるという自信、などがあります。

技術力だけではなく、考え方・バランスの取り方・他者へのモノの言い方、など確実に良くなっていることは実感できており、いざ続けてみると大したことないけど、何もしなかった自分から見たら大差がついているだろう確信です。

そうやって自分は”ちゃんと”やってきたんだという手応えがあることで、死生観における日々の生では充実感が高く安定し、最期は後悔を少なく納得と満足を抱えて逝ける……かもしれないなぁと思うことができます。

まぁそんなものは人それぞれなので、『表現』はしなくても死生観に十分足りる場合も多いでしょう。ただ、その有無で自身にどのくらい・どのような変化が起きるかは、ある程度長く続けないと体感できないため、見向きもせず『表現者』になる道を閉ざすのは、それはそれで勿体ない気はしています。


『表現』による活動効果の拡大

業務でも趣味でも、自身の成果は何もしなければほぼ自身だけの成果になります。伝える形に『表現』を残して、チームに共有すれば数人に、組織内に共有すれば数十人・数百人以上に。インターネットに公開すれば、数千から数万人に成果を知ってももらえる可能性があります。

何十時間以上かけて仕上げた成果は、いったんは自身の中での区切りですし満足もできます。その自分だけに閉じた満足感という味も確かにありますが、多くの人数に共有できた時の体感はその比ではありません。

承認欲求という意味では、SNSで反応をもらったり、アクセス数を見ることで満たされるものがあります。

そこからさらに想像すると、見てもらったということは、同じような内容に取り組んでもらった時に、自分がかけた時間に近い時間を、その人から節約できているかもしれない、と考えることができます。エンジニアの大好物である【効率化】そのものな話で、何百倍以上の時間効率を世の中にバラまいているとしたら、効率厨の効率欲求が満たされること間違いナシです。

若い頃は逆にそういう活動をすることを勿体ない・マイナス効果ではないかと考えていた時期もあり、どんだけ自身の成果を過大評価してんだよって話で、まさに器の小ささを表していた思考です;-(

他の面白い効果としては、アクセス解析ツールの Google Analytics 4 を見ていると、どの地域の人間が、どのページを見ているかリアルタイムにわかるので、アウトプットして良かったという感触と共に、まさに見ている人がいるのだから俺も頑張るかーっていう気分になれたりもします。

『表現』が良いことばかりではないのも確かですが、真摯に活動しつつ、できるだけポジティブに捉える姿勢でいれば、【情けは人の為ならず】のように、世の中へ貢献することで、自身に返ってくるような体感を期待できるかもしれません。


振り返る『表現』

私は落ち込むということはほぼ無いのですが、業務の区切りとかに退屈になったり、難しい設計や先の長い作業にぶつかった時に、サボったり気分転換をしようとすることはあります。

そういう時に、過去のブログ記事やそのコメントを見返したり、ゲームのプレイ動画を見返すと、不思議と良い気分転換になります。うまく説明できないのですが、過去の頑張った足跡や、未熟な面を振り返ることで、現在に戻って先に進める気力が湧くような感じです。

記録として残せていると、そういう感傷に浸れるのですが、勤続21年のうち後半11年はインターネットで『表現』しましたが、前半はイントラネットでしていたので残っていないに等しいです。

どのようなサービスや記録媒体も保存期限は有限なので、本当に続けたいと思うモノはやはり自身でこまめに管理するべきです…… が、クラウド上の個人ブログも死んでクレジットカードが無効になれば消えますし、サービス利用も数十年単位で見ればそれより早い死や移行が訪れるでしょう。

いつまで守り通せるかはわかりませんが、死ぬ間際に振り返られるくらいにはボケずに残せていれば大勝利ということで、『表現』にはそういう儚さも付き纏うものだと思へり。


無償の『表現』

最近のサービスは収益化の仕組みが仕上がっているので、『表現』をお金に変えることも難しくなくなりました。選択肢があるという意味では収益化も良いものですが、私の『表現』は基本無償で続けています。アナリティクス上では全ページ価値ゼロ円です。唯一、書籍執筆は収益になりましたが、その労力を考えるとプラマイゼロなので実質無償ってことにしておきます:-)

技術系で収益化してもたいした金額にならないってのはありますが、1円でも金銭が発生するかどうかで、その内容は大きく異なると思っているところが大きな要因です。

過去インターネットでは、匿名掲示板や動画サイトなどで、多くの無償による自己満足なコンテンツが量産されてきました。無償で自己満足なだけであるからこそ、そのコンテンツにはプライドとパワーが詰まっていた側面もあったのだろうと感じています。

収益化すると、少なからず数字に振り回されるため、どうしてもタイトルやサムネ、拡散のアプローチまで大きく異なる内容になってしまいます。仮にそこまで大きく儲けるつもりがなくとも、無償とは大きな隔たりがあるはずです。

昨今の収益構造に対応したような、閲覧者に対してこういうのが見たいんだろう?というコンテンツではなく、どうだこれを見てみろ凄いだろう!と突きつけるようなスタンスに私自身魅了を感じるところがあり、自身の『表現』もそうありたいと考えています。



『表現』を長く続けた結果、必然的に古臭い匂いのする感想に思いを馳せてみましたが、最初は本当になんとなく時機と思って始め、次第に内容や考え方にバランスが取れていったように思いますので、改めて、ジャンル問わずに業務外の活動を1つでもいいから継続してみたら良いと思います。

今回のクソポエムも好き勝手に書いてしまったので、次は真面目な技術記事にしなくちゃと反省するわけで、こういう無駄と本気の振り幅も自由自在なのは個人かつ無償ならでは、ではないでしょうか:-)