子どもを危険から守るしつけ

最近、子どものしつけにおける体罰との線引きが話題になっているので、なんとなく自分の考えをまとめておく。

けっして、AWSによる、AWS情報収集を強いられる、AWSハラスメントに疲れたから逃げているわけではない。たまには日記のようなものを書いてリフレッシュするのだ。



話題のリンク



体罰の是非

体罰は暴力なので絶対悪だ、とか、体罰なしにしつけは成立しない、とか、体罰の要不要についてスタンスやポリシーを語り合っていても、平行線なのが現実だ。

それは、育児未経験の人間がそれはただの暴力だと言って片付けるのは簡単で一見正しいし、絶賛育児中の人間がこどもを少しでも危険から避けるためという思いから、子どもの痛みを伴ってでも早く危険を理解してほしいと思うのもまた自然だし、育児が終わってみて体罰ゼロで上手くいった人もいれば、体罰なしには子どもを抑制しきれなかったと感じる人もいるであろうからである。

子どもに「生まれ持った性格」というものがあるかは不明だが、子どもの性格や親の性格・能力、周囲の生活環境など、いろんな要素が入り混じった中で育児というものに関わり、子も親も変化していくし、何がベストかわからなくとも少しでも最善な方法を見つけて、少しでも良好な環境で育ててあげたいと思うのが親として当然である。

 ※この、親として当然 という点に対する例外は以下では含まない

では、なぜ体罰を必要としたりしなかったりするのか。

子どもにとって、親に怒られたり、親が不機嫌になることはとても嫌なことである。なので、たいていの場合は、怒られた理由はよく理解していなくとも、何度か怒られれば、怒られたタイミングと自分の行動の関連性を理解し、その行動を起こすことで親が不機嫌になるので、やらない。というようになる。もちろん年齢を重ねれば、理由を理解できるようにもなるが、理解の有無よりも危険を避ける目的が第一である。

ここまでで済むならば、親の言動と態度でなんとかなることになる。

しかし子どもによっては、関連性の理解が遅かったり、親の怒りよりも好奇心という感情が強い場合がある。自分が怪我したり死ぬというイメージはまだできないし、親の感情なんかよりも、見つけた向こうの電柱まで走っていったり、塀の上に登ったり飛び降りたりしたくなるのである。好奇心が現れた瞬間、左右からくる車なんて意識しないし、足が滑って落ちる可能性なんて考えないし、家の鍵やランドセルすらも平然と置き去りにしてくるのだ。

ホンマ猿かよ。
って猿に失礼なレベルで猿である。特に男子は。
この時代に性差について書くのは危ういが、確定的に男子の方がバカなのは見てりゃわかる。

そんな猿以下の人間が暴走するとどうなるのか。悪ければ車に轢かれて死ぬし、熱湯をかぶって大火傷するし、骨折もする。軽い擦り傷や切り傷でも、一生アトが残る怪我になるかもしれない。

という想像ができる親と、全く想像できない子。その差を手っ取り早く縮めようとする時に、体罰が登場する。たまたま軽い怪我で済めば、それは自分に悪い結果をもたらすと理解できるが、その怪我のほとんどは親が子に対してわざと経験させるようなものではない。しかし、理解してもらわねばならない。しょうがないので、子の肉体に、実際のリスクの何十分の一でも痛みを与えて教えようとなる。

そして、その痛みの与え方によって、理解してくれればその程度── 例えば平手打ちやゲンコツは正しいとまでは言えなくともやるべきだったと言えるが、それでもまだ理解してくれない子どももいる。体罰を与え続けて理解してもらえなければそれはただの暴力そのものだし、体罰を全く与えない方針で進めて結果的に事故にあえば、それもまたしつけの失敗といえるかもしれないし、他の方法もあったかもしれないと悔やむことになる。

親として極端に言えば、結果的に無事に健康に育ってくれればよいのだが、結果的に体罰が必要だったのか不要だったのか、それは運要素も入ってくるため正解はないのだ。


体罰の本質

これは体罰を肯定するものではないが、なぜ体罰を与える必要があるかというと、『恐怖』を与えるためだ。人間の最も原始的な感情に訴えるのである。

車に轢かれて自分がどうなるかイメージできない。飛び出して轢かれる方が少ない = 飛び出し成功体験が多いのに、なぜ飛び出してはダメなのかわからない。しかし、実際には飛び出しに失敗したら死ぬし、その可能性はそんなに低いものではないため、早期の解決が必要だ。

本当に轢かれれば車が怖いものだと理解できるが、経験できない恐怖の代わりに、体罰による恐怖を刻む。車に轢かれてぐちゃぐちゃになって血だらけになって死ぬイメージはできなくとも、言葉と表情とジェスチャーを使えば、「車がきていないかみる」「きていなければ渡る」くらいは、わりと早いうちになんとなくでも理解してもらえる。しつこくしつこく、それを教えつつ渡り、それでもいつか教えを破る瞬間がきたら、取り押さえた上で恐怖を与えることになる。

「この教えを守らないことは、とてもヤバいことなんだ」と感じさせる。

その恐怖があるからこそ、多少の好奇心が舞い降りても、守れるようになる。守らないとヤバい!怒られる!! 轢かれるイメージの有無はさほど問題ではなく、その教えを守れるようにすることこそが、しつけなんだと思う。

聞き分けの良い女の子だと、「飛び出したらアナタが怪我しちゃうから、ママが悲しいの」みたいな夢物語が通用するかもしれないが、クソガキレベルの男の子だと、何度も注意をした上で2秒手を離したその瞬間には飛び出すことだってある。

会話だけで済めばそれに越したことはないし、どうしてもダメならハーネスで繋ぐことにもなるだろう。しかし、この両極端な対応どちらであろうとも、最終的には恐怖を教えるということに変わりはない。

会話で済むにしても、車に轢かれたらどうなるか、というのを知ることが正しい知識だからだ。会話と体罰を駆使しても理解できなければ、その先はおそらくただの暴力の連発になるので、その子に対する特殊な対応が必要になる案件なのだろう。

また、子どもに性差が(おそらく)あるように、親にも恐怖という点で言えば差があると思っている。

父親と母親、どちらが怖いかといえば、普通は父親である。顔や表情、身体の大きさ堅さ、声の大きさ太さ、総合的に考えれば男親の方が圧倒的に怖いのが普通だろう。男には本能的に小さい頃から暴力機能が備わっているので、怖さを打ち出すのはそう難しくない。厳しい表情と太く低い声で、真剣に怒れば、その怒られ度はかなりの度合いで伝わりやすい。極端に言えば、手を出さずとも「ヤバい、殺される」とすら思わせることができる。母親だと、そういう意味では恐怖が足りない場合がある。それを補うために、言葉を駆使したり、逆に手を出してしまう、ということになる側面はあるだろう。もちろん、男女が逆になったり、どちらも片方のパターンがあることは否定しない。

そういう性差による恐怖感の違いもあるにはあるが、大きなところはやはり父母関係なく、その親の性格と能力によるところが大きい。せいいっぱい言葉で伝えようとし、せいいっぱい最低限の体罰で理解してもらおうとしても、その程度はやはり子・親・環境によって異なってくる。

そしてどのような条件下であるとしても、どうしても恐怖を伝えねばならないときがある。その方法は環境によってそれぞれであり、できるだけ体罰がないに越したことはないものの、体罰を与えないという方針よりも、恐怖を学習させることが優先であると判断した場合に、言葉と態度で解決に至らなければ、残念ながら体罰に及ぶことがあるだろう。

しかしそれは、誰もが最低限に留めるべきであり、決して感情をぶつけたり、危険に関わらない事柄で駆使してはいけない手段だということは理解しておきたい。


体罰としつけ

何が体罰で何が体罰でないか── 仮に肉体に物理ダメージを与えることを体罰とするならば、私も体罰を与えたことが数回ある。

主に、肉体の危険に及ぶ教えを守らなかった時に。冗談ではないタイミングで暴力をふるってきた時に同等のパワーの暴力を。それ以外の度が過ぎた案件については、怖い声で泣くくらい叱る、という感じだ。

肉体の危険に関してはさきほどの恐怖の話そのままだが、自分が(父に)与える暴力がそのまま自分に返ってきたときに、「やったらやられて当たり前だ」と教え続けたかいがあってか、他者への暴力を振るう子どもにはならなかった。しかしそれも実はそういう性格だったり、保育園のおかげだっただけで、体罰返しが理由でそうなったとは言い切れず、不要な体罰だったかもしれない。

体罰が必要か不要か、仕方なしにしてもどの程度の体罰にすべきか、は結果に対して正解だったかを確かめる術はないので、判断が非常に難しい。しかし、あえてある程度確実に言えることがある。

それは、体罰を与える理由は、子ども自身の肉体に関わる事案であるべきだ、という点である。少なくとも、勉強や時間に関わるような事柄で体罰を与えても解決するどころか、おそらく悪影響だからだ。

そして、体罰を与える場合も、それが感情によるものではあってはならない、ということだ。もちろん、子どもの危険は親にとって心配であり、心配は翻って怒りになりうる。なりうるが、その怒りそのものをぶつけるのではなく、大半は大元である心配をぶつける結果でありたい。怒りが爆発するんだけど、できるだけ怒りの炎を抑えて、抑えた炎を怒号や体罰とし、かける言葉は心配であるべきだ。なんと難しいことを言っているんだろう、これが育児であり教育なのだ。

体罰は誰もがやりたくないし、
体罰をするにしても状況判断が大事だし、
説教や体罰をするにしても実は大半は演技と手加減の調整、という

そんな難しい育児の経験があれば、頭ごなしにアレコレは体罰ですと言われたら、そりゃお前ぇなに言ってんだってなると思います。体罰の線引きについては、明文化によって親がこれ以上は体罰となり悪影響だと認識するためのものであり、線を超えたからといって即通報だとなるものではないことを願いたい。超え過ぎ、または日常的が、その対象となるのが妥当かと思われる。



最近の時代の流れとして、体罰は禁止だし、運動や勉強は楽しくやりましょう、というのは基本的な考え方としては間違っていないでしょう。

しかし、生物として肉体の危険に関していえば体罰ゼロで全てうまくいくかといえば、そうとは言い切れないし、運動や勉強も横一線ではなく頭一つ二つ飛び抜けようとしたら肉体や脳を限界近くまで酷使してしか得られないモノが確実にあるわけで。

この件が、ただ単にヌルい対応を求めているのか、体罰を与える条件を考え直すキッカケとなるのか、ちょっと考えただけでもいろんな事例が思い浮かぶので、ガイドラインとして設定するにはあまりに難しい課題だと感じています。

……全然リフレッシュにならない日記だった:-(