アウトプットの在り方を模索する

ここ数年で感じていたことがあり、エンジニアがアウトプットすべき理由 を書いてから8年近く経過したので、アウトプットすることについて考え直してみました。

ほぼ自分用の考察メモであり、今回から徐々にSNSと距離を取る形で更新し、模索していくことになりそうです。




前回の振り返り

前回エンジニアは寛容かつ建設的でありたい は様々な反応をいただき、ありがとうございました。

人によっては内容が攻撃的に映るような、あまり適切ではない表現を含むことは承知していました。しかし、長く世話になっているインターネットの文化が、明らかに悪化方面に向いて進行している部分が見受けられるのに対し、それを完全に放置して自分のスタンスだけを変えていけばいい、というのは少し違うかなとも思いました。

私1人の意見と感想で集合に対して好影響を望むなどおこがましいですし、影響できるとも微塵も思っていません。しかし、何もしないことと、一石を投じてから離れるのとでは、自他ともに微量ながらも意義があるはずで、ダメージ覚悟で問いかけてみた次第です。

思うに、完全に自分の意志で得に行く情報は、それにネガティブな態度をぶつけるのは筋違いですが、バズり目にする情報は、ある種の押し付け性質があり、押し付けられて見に行って”やった”結果、自分の想像と少しでもズレた場合に怒りに変換され、ネガティブを含む行動に出やすくなるのだと思います。そこで自制が効く人は、冷静な指摘で済むか、何もせず退出するか、です。

頻繁に反応をしていると、反射的に反応したくなるクセが付き、自制ナシには悪化の悪循環に陥るのではないか、ということを私自身もコレは危ないと感じたことがあります。

皆が皆、距離感や頻度を自制できればいいですが、今の文化傾向だと悪化することはあっても、自然に良化に向かうことは難しく、あっても世代交代並の長い年月がかかるのではないでしょうか。

結果として傾向は確認できたし、本記事で模索するキッカケの1つになったので、どちらかというと書いて良かったと感じています。


アウトプットの目的

さて、まずは改めて、現在のアウトプットの目的について整理してみます。

  • 公の場に出す緊張感による、情報の精度向上(自分のため・炎上対策)
  • 労力をかけた情報を共有することで、楽に成長して欲しい(他人のため・労力価値の向上)
  • 日々インターネットから情報を取得していることへのギブアンドテイクの精神

歳のせいか昔よりだいぶ簡素になりました。本ブログは一切の収入を得ていないので、以下、収入を得る環境とは一線を画しております。


個人の反応

目的にはありませんが、この『個人の反応』が最も有用なメリットの1つでした。

足りない部分があれば指摘してくれたり、高い品質に仕上げた情報でも、さらなるプラスアルファを促してくれたり、どうあるべきかの議論を交わしてくれる、本当にありがたい存在です。

彼らは集団の中でのコメントではなく、直接的なメッセージで関わってくれることが多いです。ほとんどが面識はなくアイコンで互いを認識するような間柄ですが、とても建設的に会話できるので、盛り上がるし得られるものが多いです。

しかしながら、個人のこういった反応は、タイミングもあるし相手のコストもある(コストと感じない人だから相手してくれるのでしょうが)ため、アウトプットすれば高品質な個人の反応をもらえるかも、というような期待はしませんし、するべきではありません。そのため、目的には入れていません。

公の場で目に付きやすくするほど、この事象の可能性は高まりますが、今回はあえて在り方としては切り捨てる形に振ることになります。


集団の反応

リスキーなメリットではあるものの、アウトプット側としての楽しみの1つとして、集団の反応がありました。具体的にはTwitterやはてブコメントです。

昔は、「なるほど」「そういう考えも」のように、納得したり、改めて伸ばす調査をしたくなるコメントが多く、気の利いたツッコミも含めて楽しみつつ役に立っていました。また、その反応数に満足感を得られたり、知名度といったステータスに影響があることは否めなく、その先に登壇や執筆活動があったと考えるので、欠かせない存在だったと捉えています。

ただこの数年は、アウトプットの品質の良し悪しに関わらず、こちらに刺さる良コメが激減し、それ以外の割合が徐々に増えてきた印象が強いです。これは私のただの感想であり、刺さらないのも感性と時代のズレかもしれなく、文句ではありません。

おそらくコメントの1つ1つは、あくまで個人のものなので全体を考慮されていないものが多いでしょうが、それをコメント群という1つの塊として離れて見た時、少しずつ良コメがあれば良質な存在に映り、逆だと悪質な存在に映ってしまい、今は私にとって悪い方に振れているためでしょう。

反応の取捨選択をするにせよ、真剣にアウトプットすると真剣に反応も拾うので、拾う・捨てる・拾う・不快感、のように目に止めざるをえなく、ネガティブな割合が多くなり、拾う価値も減ったとなれば──

そうなると詰まるところ、別にもう集団の反応は不要になったかな、という感想にたどり着き、不快感に触れるリスクだけが残った形になります。これがだいたい2~3年前くらいの感想です。


バズの必要性

世の中に、1つのコンテンツに対して集団かつ一方的にコメントする仕組みが存在する以上、軽率なミスが命取りとまでは言わなくも大ダメージを追う可能性を常に含んでいます。

そのため、通常は精査を重ねて公の場に表現するのですが、その精査コストは成長を促すとはいえ、少々無駄でやりすぎな側面もあります。しかし、100個の良質なコンテンツを生んでも、101個目で油断するだけで酷い目に合う可能性があり、コストを掛けざるをえなく、あまり健康的な環境とは言えません。

むしろ安定するまでの序盤の方が抜けがあることが多いので、新しい取り組みや、新規発信者には、より重いプレッシャーがかかるのは言うまでもないです。

しかし、目的に『知名度を得る』がある場合があります。外野を気にしないといっても、あまりに反応が無いと外に出す意味も薄れるので、ある程度は見てもらうための活動をする必要はあります。組織の場合は存在やその取り組み内容をアピールし、採用につなげるといった目的があります。

なので『バズる』事象自体は、場合によって有益なものであるのは間違いありません。

ということは、目的によってはバズる必要はないのではないか、という方向性に考えが向くことになります。


自然な流入

『バズり』がある種のお祭り感覚として定着してしまった以上、その有益性と危険性の両方を無視することはできません。ではバズを除外してしまえば、どのような運用になるのか。

瞬間的な流入はSNSからが圧倒的に多く、普段は検索エンジンからが主です。他には直接やRSSリーダー経由で定期的にチェックしてくれる場合もあります。

SNSからの流入の多くは、バズっていた・目についたから、とりあえず開くという場合が多そうです。それに対し、検索からは知りたいことを明確に来てくれ、定期的にチェックしてくる人にはそれなりに気になる存在になれている、と想像できます。

私にとってバズりで得られるはずのメリットは、現在は必要とせず、その欲求もない状態です。なのでSNSへのリーチを外してしまえば、より私のアウトプットを必要としてくれそうな人の割合がグッと高くなるわけです。

収益化もないのでアクセス数も関係なく、目的に沿った閲覧者にのみ届けば十分という結論になります。反応の取捨選択をするという方向性ですが、コメント1つ1つの選択をするのではなく、集合全体として捨を選択する、というのも1つの正解でしょう。


模索の方向性

では、どのような取り組みや方向性にすれば、この先も気ままに長く、かつ効果的に継続できるのかを考えていきます。

SNS連携をしない

今までは、ブログ記事更新後には必ずTwitterへの投稿と、はてなブックマークへのセルクマをしていました。これによるバズ度への影響がどれほどかは怪しいですが、SNSと連携しないことで多少なりとも効果があるような気がしています。

1つは自身がSNSへの期待をしないようになること。自身の手で共有するということは、そこから広がる情報伝播を少なからず期待しているわけで、それの発生を停止するということです。

もう1つは、バズる傾向としては、更新日時から近くに注目されるほど伸びやすいので、ひっそりと更新することでパラパラと見てもらい、少しでもバズりづらくなることを期待します。全然効果はないかもですが、ワッと集まってお祭り会場にされるのは、いまや本意ではないためです。

外部サービスの機能制限はしない

例えば、はてブには コメント一覧非表示機能 がありますが、この機能自体は尊重するものの、私にとっては本質ではないので、こういった制限はしない予定です。

他人が使っている他所のサービスの機能は制限したくないし、どうせTwitterがあるので、制限するのも、自分が見に行かないのも、たいして変わりはなさそうだからです。

質問箱 的なナニカ

技術的な公開アウトプットは普通に好きなので変わりなく継続するのですが、実は人から質問や相談をされることに回答するのも結構好きだったりします。

まだ決めたわけではないですが、質問箱的な場所を設けて、質問や相談を受けたり、テーマを提示してもらうような活動は、面白く効果的なんじゃないかと考えています。

公に出して公から反応を得る活動がこれまでで、それにかかるエネルギーを少し減らす分を、個から先手してもらって個に返しつつも、公でも見れる構成にしておくと。

ザックリ想定対象としては20代以下で、どのような内容を想定するかはまた別途記述になりますが、解を返すというよりは、解決のための判断材料を提示するイメージですね。私にとって心もとないネタがきたら、自己の成長にも繋がるかもしれません。

私自身、凸凹な経歴を通っているので役に立つかは正直わかりませんが、今の若手は旧世代とは一線を画す将来性がある気がするので、地道に個の序盤を支える活動は、長い目でみて有益になる可能性がありそうなのと、必要な人間に必要な内容を届けられるという効率面で、これまでよりも有意義にできそうな予感がします。



前回・前々回で技術の失敗で炎上し、ネチケットについて提案しましたが、直接的にそれらを要因として模索しているわけではないものの、あれらのアウトプットなしには、この模索もなかったと思っているので、どのような失敗も次に繋げられる、繋げていく姿勢が大切であると実感しています。

ずっと習慣通り継続するのも尊いですが、役立つことを・変化に順応しつつ・効果的に、ってのを考えることを学んだ、そんな機会と相成りました:-)