『教育』はいつの世も親の悩みのタネでして、中学受験生の『1月分』の塾代のあまりの高さに驚愕する人たち「新卒の初任給より高い」「どんな世界なの…」 – Togetter の流れには心を動かされるところがあります。
ウチの小4の子もそれなりに受験を視野に入れた塾通いをしているし、漫画読みとして『二月の勝者』も好きなので、雑感してみたくなりました。
塾の費用
単純に金額的にいえば、教室費・教材費・人件費 など明細を見て考えれば、普通に割に合っているのがわかります。90分・2000円 としたら、
週2で月16,000円
週4で月32,000円
です。それだけでも年間にして20~40万円。
夏季・冬期講習も高く見えるけど、単純な増加時間+専用教材+テストなど含むので、まぁ……という感じ。
あとは目指す難易度とか講習形態・塾ブランドで上下するだろうけど、少なくともボッタクリではない。シンプルな金額だけ見て個人的感想にしちゃうと確かに高いですが、ビジネス視点だと妥当である、というのはほぼ揺るがないでしょう。
そして、それが中学受験目的の2~3年間だと約300万円。これをどう見るか。
もちろん安くはないですが、金額だけ見て「高い!」「格差社会!」と言っても何も生まれません。300万円で購入されただろうファミリーカーに「格差社会!」とか石を投げつける人はいないのに、学業になるとなぜ炎上しやすいのか……不思議なものです。
部分的な費用とか見てもしょうがないんですよ。旅行とかでも、1つ1つの食費で数百円とか気にするよりも、大雑把に20万円分は消費するつもりで楽しむぞ!の心持ちのほうが健康的に楽しめたりするじゃないですか。同じように、ガツンと300万円を投資したらどないやねん!?と考えたほうがよさげです。
私の場合、認証保育園に年間平均80万円、6年半で500万円以上(引く補助金)を使ったはずなので、それがいったん公立小学校低学年でほぼ給食費のみになり、高学年でまた戻ってくる感覚ではあります。
小学校6年間で受験のために300万円と考えれば、1年あたり50万円、1ヶ月あたり給食費や教材費コミコミで5万円くらい。と考えると、少し豪華な趣味と大差ないはずで、
よほどの貧困層には届かないとしても、子どもが1人ならば、かなりの割合の家庭にはチャレンジできなくもない数値ではあるはずです(子どもが複数とか、都立/私立は家族計画的なまた別の話)。
それすら認識できない・しようとしないで自慢だの格差だの、非難・揶揄する人物こそが格差そのものを表しているのでないか。と、強く言いたくなるくらいには今回、酷いインターネットを見ました。
都会の価値
「これだから東京は……」のような感想もよく見ますが、地方で車代として300万円を投資して幸福度を上げるのも、車の不要な都会で教育費に300万円を投資して幸福度を上げる可能性を高めるのも、本質的にはたいした違いはありません。どちらが良いという話ではなく、人間がそれぞれの環境で必要と判断した何かに資金を投入した、という価値観の違いであって、そこに非難したりされたりする要素はありません。そういう環境もあるんだと互いが認識するだけであって、自身の環境や価値観と異なるから揶揄する、という行為はそれこそが下品で下等なものです。
都会には都会ならではの収入と支出があり、その中の1つに中学受験があるわけです。それは別に義務ではないし、高学歴が生活に必須なわけでもないし、多額を積めば内定を得られるわけでもなく、金銭的な参入障壁が異常に高いわけでもない。とくれば、それはただのいち家庭によるチャレンジの範疇でしょう。
東京だからこんなことになる、というよりは、
東京だから挑戦できる、と考えるほうが健全です。
地方の公立中学校
私は高校までは北海道で過ごしたので、これらの意見は理解できるところです。まぁ子どもの集団を「動物園」と表現することはよくないですが、その集団全体がというよりは、極一部の数人に、会話が通じないレベルでヤバいのがいたりするのは事実であります。「やめて」「やめてやれ」など言葉をかけるほど、むしろ喜んで暴力や性的嫌がらせをしだす人間がいる。ということは認識したほうがよいです。
そういうヤバい生徒と生活圏をともにした場合、上手に受け流せたり、体力があればなんとかなることも多いのですが、そうでない場合、生活を乱されるどころか人生を壊される可能性も十分にあります。特に賢い子ほど体力がなかったりするので、このリスクを認識していれば、そこから離れるという選択肢、すなわち中学受験はとても価値が高いものとなります。人生、なんといっても、幸福になろうとするより、不幸を避けるほうが重要だったりしますしね。
(別に自慢じゃないですが)私自身、わりと勉強も運動もできたので、学年成績トップの生徒会長から、青い髪の番長まで、広い範囲と交流がありました。ただ当時の番長はカタギに過剰なちょっかいを出さないポリシーだったので、学校全体がそういう雰囲気になり、学業専念型のグループもきっちり進学校へ進んでいけたのは、市内トップ3に入るヤンキー中学としては不幸中の幸いだったのでしょう。
子どもの世界に限らず、大人の世界もそうですが、自分の知らない常識の人間や世界がいっぱい存在する、ということは常に意識すべきところですし、知りもしない世界に否定的な意見を投げることはしない。といったことが大切なのかなと思います。
あと個人的感想としては、地方でも学力が高い人間がいるわけで、彼らが東京で受験を受ける人生だったら、どんな風になっていったのかな。と思うところがあり、それはやはり地方と都会の学力格差ではあるのですが、それぞれの土地で必要なものは異なるのだから、やはり考えても仕方ない部分なんだろうな、とも思います。
受験というチャレンジ
ハイレベルの受験をするということは、個が上を目指すということであり、それは人類の文化や技術の向上に貢献することでもあるわけです。その時代の積み重ねによって、発展の恩恵を受けて生活をしているわけで。受験に否定的な人は、発展や実力向上にお金がかからないとでも思っているのでしょうか。むしろ、お金をかけて上を目指す人がいたら、応援することが自然である文化が健全であるように思います。
確かに一見、金のかかる中学受験であり、塾に通わなければ絶対に解けない難題が受験問題となる構造には疑問が残りますが…… それなりにハイレベルな受験をして合格を狙うには、親の経済力と、子どもの素養と、受験用の努力 が必要になります。
仕事をして結婚をして、妊娠・出産という命を賭したイベントを経て、赤子の頃から愛情をもって自分で考えたり本を読めるような素養を身に着けさせるわけです。子どもの興味や関心を引き出したり、時には苦しい努力も継続できるようにモチベーションを保ってあげたりします。それらをしつつも、当然のように社会で働いて収入を得て教育費を捻出していく──
──という長年の成果の1つとして、ようやく受験できるわけです。
冒頭の金額画像Tweetをパッと見ただけで、揶揄している人間はそういった経緯が全く見えていない。
少なくとも中学受験できるということは、金銭だけではない親の継続的な努力の結果の1つであることは疑いようもなく、それを非難するということは、金銭に余裕のある家庭だけでなく、工夫・節約して受験という土俵に上がる家庭まで、多くの挑戦する家庭を非難することに繋がっています。
誠実・堅実に家庭を営み続け、子どもに、より成長させる可能性を与えられる選択肢、があるとしたら、そこにチャレンジすることは紛れもない健全でしょう。嫉妬で足を引っ張っても底上げされるわけでもなし。若者の能力向上が全体の底上げになる、と信じることがまっとうじゃないでしょうか。
子どものチャレンジ
中学受験は家庭としての挑戦ですが、では肝心の子どもはどうか。受験している子どもは「かわいそう」なのか。最初は心情的には面倒くさいし、なぜそこを目指すかもわかりません。中高生ですら、明確な目標や目的を持つことは少ないのに、小学生にそれを期待することはできません。
そこで重要になるのがモチベーションです。
例えば、親が受験中学校の文化祭見学に連れて行って、子どもが「ここに通いたい!」と思ったとしたらどうでしょうか。文化祭なんて見たら楽しそうなのは当然で、親の誘導でしかないと思うでしょうか。それとも、あくまで親が提供した選択肢のひとつであり、その中で子どもが気に入ったと捉えるでしょうか。
子どもに限らず大人も、目標や目的といったモチベーションによって、成果に大きく差が出ます。ただ大人と違うのは、モチベーションの源はなんでもよいということです。
ここに行けば楽しく過ごせそうとか、友達が行くからとか、好きな部活動が活発だからとか、きっかけはなんでもいいんです。子どもに芽生えた自発的な感情を、機会の根本として伸ばしてあげることが最も重要なのです。それをキャッチできない人間は、確実に教育に向いていないと断言できるくらいです。
子ども自らが選択したり判断した、という事実はとても強力です。例えそれが、誘導気味であったり、限定された選択肢の中からであったとしても、です。半ば強制的にやらされるのと、自分が判断したと思って取り組むのでは天地の差があります。
では、誘導が悪かというと、そうでもありません。
年長さんがランドセルを選ぶとします。売り場に行けば、デカデカと『滅』と刺繍された商品があるとします。家庭によっては、6歳児が85%の確率でそれを選ぶことが確定的であるのに対し、親としては6年間を考慮してシンプルで丈夫な造りをした製品を与えたい心境です。
この時、その売り場に連れて行くと、一瞬で「これがいい!」と決まりますが、親が否定して別のものを選ばせようとした時点で、親子の間に軋轢が生じます。想像しましょう、現場は地獄絵図です。
これを回避するには、売り場に行かず、シンプルな製品のみのカタログを一緒に見て、予算の範囲で複数のカラーから選べるんだけど、どれがいい?と問います。すると、男子なら黒なり青なり紺なり、「これがいい!」とすぐ決まります。
同じ「これがいい!」ですが、結果に大きな違いがあることがわかります。特にこういうファッション・センスに関しては、男子はマジでクソな時期があったりするので、世間一般的に良いセンスというのを、誘導的に備えさせてあげる必要もあるわけです。
では学業はというと、やはり親の経済力を含めた希望がある中で、子に選択肢を与えて選ばせる体をとります。そこで、どんなキッカケでも子どもが自ら「ここがいい!」「頑張ってみる!」と言えればそれでよいのです。
それが言えれば、多少サボりたくなったり心が折れそうな時が来ても、「オメーが決断したことだろ」と一蹴することができます。それが強制的にやらされたことだと感じていると乗り越えることは難しいでしょうが、自分の決断であると本人が思っていれば乗り越えられるものです。近代だと「嫌なことはやらなくていい」とかも選択として出そうですが、乗り越えるべきところと、そうでないところの判断すら親ができないと、ニートまっしぐらになったりするわけで。
……なので、少なくとも「子どもがかわいそう」とかそういう話ではなく(親がヒステリックだとかは知らん)。真っ先にそういう感想が出る人は危ういので、育児・育成について少しは考えてみると良さそうです。学業に限った話でもないので。
親ができること
親が教えればいいじゃん、というのもズレた意見です。親が選択肢を提供して、モチベーションを出させて、金を出して。でも、できることはそこまでだったりします。幼年~低学年、程度までなら算数とか文章を読む力とか、つけさせることはできますが、受験用の勉強となるとほぼ手出しはできなくなります。もちろん、頑張れば解けるレベルの問題もある時期はありますが、最終的には秒で投げ出したくなる問題がズラリと並びます。面白いので、難関校の過去問を見てみると実感できます。
そして、そう遅くないうちに、問題の解答速度や正答率が、親よりも抜群に伸びていきます。たかだか10~12歳の子どもが、です。そうなると、褒めるところは褒めるとか、余計な心配は投げかけないとか、好きなオヤツを買っておくとか、その程度しかできないモチベーション・コントロール・マシンに成り下がります。
つまり中学受験を肯定すること前提であるならば、塾にお金をかけることは必須ということです。
ハイレベルを選抜するのに、普通の小学校の学習範囲から問題を作れるはずもなく、かといってハイレベルな内容を普通の小学校に取り入れられるわけもなく。となると、校外で身につけて挑戦する、という今の形態は自然な流れなのだと思います。
今がベストである
私としては、せっかく東京にいることや、子どもの素養や希望を踏まえて受験に取り組む姿勢ではありますが、中学受験という仕組みに100%賛成かというと、やはりそうとは言い切れない部分も多くあるわけです。ひとつ絶対におろそかにしたくない考えとしては、人生において今現在がベストである、という思いです。
もし自分が都会に生まれて中学受験をして、東大に入ったとしたら・・・? 今より幸福だったかなんて誰にもわからないわけです。
最難関に合格することが合う人もいれば、それより少し余裕のあるところに行く方が友人に恵まれて幸福かもしれない。難関校だからといって、必ずしも何かの被害に合わないとも言い切れない。
中学受験によって賢くなることは、必ずしも幸福になれることではないですが、不幸になる可能性を小さくできるかもしれないし、より楽しく希望に叶うよう生きられる可能性を広げられるかもしれません。
あらゆる可能性がある中で、もし数百万円という余力があり、教育に価値を見いだせるのであれば、いつそれを突っ込むことが最も効果的かといえば、中学受験なのではないか。というのがひとつの考えです。
しかし結果がどうあれ、今現在の人生の選択と結果がベストなのだ、と思い続けられれば中学受験もさほどたいした要素でもなく。
そういう心理のバランスも試されているとしたら、親も子も成長するに値する格好のイベントなんじゃないか。そう思えてきました:-)